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1万5千キロとフラメンコ
志風恭子 2004年5月
外国のフラメンコ熱ということで最も目立つのは日本だろう。日本とアンダルシアとの間には1万5千キロもの距離があるが、フラメンコを愛するたくさんのファンにとっては物の数ではない。1929年にラ・アルヘンティーナが来日して以来、今日まで、ほとんど全てのフラメンコ・アーティストが来日公演を行っている。それだけではない。日本国内にある何百もの舞踊教室や、セビージャやマドリードに学んだ、日本人アーティスト(とくに舞踊家)で自給自足せんとさえしているのだ。この道では、小松原庸子と小島章司が大きな役割を果たしてきた。少しずつ、日本のフラメンコはみずからの歴史を築き上げつつある。
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Shoji Kojima |
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日本。なんて遠い日本。しかしながら、フラメンコに恋をした沢山の日本人たちにとって、距離は問題じゃない。1549年サン・フランシスコ・ザビエルは初めて日本にたどりつき、1614年、スペインにも、もっと正確にいえばサンルーカル・デ・バラメーダに、最初の日本人がやってきた。フラメンコが生まれる、ずっと前のことである。日出ずる国に「オレ!」の声をきくまでには時間がかかった。フラメンコが日本にやってきたのは1920年代のことだ。最初は米国人の手によってであったが、間もなく、“フラメンコ”たちもやってきた。1929年の1月と2月に、ラ・アルヘンティーナが「恋は魔術師」や「アンダルシア」といったプログラムをもって来日公演を行い、1930年代にはSPレコードが発売されるようになる。同じ頃、後に、日本最初のフラメンコ・ギタリストとなる一人の日本人が闘牛士を夢見てセビージャにやってきた。闘牛士にこそならなかったが、アラメーダの夜やグラナダのサンブラを堪能したのだった。
第二次世界大戦敗戦後、多くのスペイン人アーティストが日本にやってくるようになる。1955年にはマノロ・バルガスやロベルト・ヒメネスといった踊り手や、歌い手ラファエル・ロメーロをメンバーとしたフラメンコ舞踊団が来日、1960年にはアントニオ・ガデスを擁したピラール・ロペス舞踊団がやってきた。日本のフラメンコ熱は、この頃より少しずつ成長していき、スペイン留学を行う者もでてくる。長峰ヤス子、、小松原庸子、岡田昌巳、小島章司、水沢明雄…。彼らは最初にスペインへフラメンコ留学した者であり、その後、ラファエル・コルドバやマリア・ロサの舞踊団、またセビージャのロス・ガジョスといったタブラオなどで活躍した。
日本にもフラメンコをみせる場所を開くべきときがきた。1967年には、スペイン人アーティストによる公演が行われるタブラオ「エル・フラメンコ」が開店した。この店の舞台には沢山のスターたちが登場した。クリスティーナ・オヨス、マノレーテ、マノロ・ソレール、ホアキン・グリロ、サラ・バラス、ハビエル・バロン、エバ・ジェルバブエナ、ベレン・マジャ、ラファエル・アマルゴ,ペペ・アビチュエラ,エンリケ・メルチョール、ハリート、ホセ・メルセ.エンリケ・オルテガ…。
1984年には、雑誌「パセオ」(現在は「パセオ・フラメンコ」)が創刊される。この月刊誌は200部から始まって今は発行部数1万5千部を数える。が、本当のフラメンコ・ブームは、1986年に作品「カルメン」をもって来日公演したアントニオ・ガデス舞踊団を機におこった。教室数も、日本人アーティスト数も増え、レコード(後にCD)やビデオも多く発売されるようになり、衣装や靴を扱う専門店も開店する。少しずつではあるが、今まで止むことなく、このフラメンコ熱は続いているのだ。
続く >>
flamencojapan@flamenco-world.com
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